公園の猫 10

何の前触れもなく目の前に現れたあの女性は、S子に何か伝えようとしています。

いつも遠巻きで見ていた彼女が突然目の前に現れ、戸惑ったような、緊張を解すために作った笑顔がうかんでいましたが、その瞳の奥には強い意志を感じました。

一瞬戸惑ったものの、落ち着きを取り戻してS子は助手席の窓を開けました。

(すいません、急に。さっきあげてたチョコレートって、猫にはあんまり良くないの。細かい事言っちゃってごめんなさいね)

彼女はチョコビスケットを投げ入れていたS子の動作を見ていたようでした。

突然やって来て意見されたことで、反射的に言い返しそうになりましたが、彼女の目からは自分の言うことが疑うことない正論であるという自信を感じ、S子は気が付くと(ごめんなさい、知らなくて…)と言い訳を口にしていました。

(私の方こそ、急にごめんなさいね)

そう言って今度は親しみを込めた笑顔を作り、自分の車の方へと彼女は戻っていきました。

しばらく彼女の後姿を見ていましたが、気を取り直して車のシートを倒し目を閉じました。

瞼の裏の暗闇の中でS子は、たった今起きたことを考えてみました。

元々、公園の入り口には餌やり禁止の看板も出ている。それなのに彼女は、もちろん自分も野良猫に餌を与えている。批判される行為の中にも正論があり、他人である私にその正論を疑うことなく伝えに来た。何が悪くて何が良いのだろう。もちろん野良猫とはいえ傷つけるつもりなど自分にはさらさら無い。ただ私は、旦那から半ば強制される行為を避けるためにここへ来て、普段はドラッグストアで餌を用意しているが今日はたまたま餌が無かったため、チョコビスケットを猫にとっては良くないものだと知らずに与えてしまった。

倒した体の向きを変え、いくら考えても答えなどないものだとため息をついて、S子はそれ以上考えるのをやめました。

さっき去っていった彼女の後姿が瞼の裏に浮かんできました。腰に下げたバッグにはユラユラとバッグチャームが揺れています。

それは神秘的な青い光を反射させる、フクロウを象ったバッグチャームでした。

 

 

 

公園の猫 9

それからほぼ毎回、公園に行くとあの女性が居ました。

いつも餌皿を二つ用意して、少し離れたところにしゃがんで猫たちが食べるのを眺めています。彼女は愛しそうに微笑んでいるように見えました。

 S子は相変わらず、ドラッグストアで購入した安いスティックや固形の餌を車から投げて、群がる猫をぼんやり眺めていました。

その土曜日も下の子を送った後、コンビニに寄り自分用の紅茶とチョコビスケットを購入して公園に向いました。駐車場に入るといつものようにあの女性がいて、やはり餌皿を二つ置いて少し離れたところで群がる猫を眺めていました。S子もいつもの場所に車を停車させました。

早速集まってきた猫たちに、ちょっと待ってね、とつぶやいて助手席の下に入れたエサを取り出しました。餌を包んだ袋を開けてS子は気が付きました。前回来た時餌がもう少ししかなく、買うのをすっかり忘れていました。

手に取るとささみのスティックは二本しかありません。砕いて投げ入れると瞬く間に猫たちは平らげました。今日はあの最初に出会った白猫と、その子供たちなのか子猫が三匹ついてきています。

こちらを見上げる白猫の青い瞳を見ながら、ごめんね今日はこれだけなの、とS子は声をかけました。

それから買ってきたチョコビスケットをつまみながらS子はスマホを弄って時間を潰しました。

しばらくして、おそらく三十分は過ぎたでしょうか、ふと外に視線をやるとまだ白猫がこちらを見ています。どこかに行っていて戻ってきただけなのかも知れませんが、その青い瞳を見ると、動かずにそこでずっとS子を見上げていたような気がしてきました。

S子は食べないだろうと思いつつ、チョコビスケットを投げ入れました。白猫はしばらく嗅いだ後、バリバリとビスケットを砕いて食べ始めました。そして食べ終えるとまた青い瞳でS子をじっと見つめています。

さらに二枚ビスケットを投げると、白猫の子供たちも戻ってきて一緒に首を振りながらビスケットをかみ砕いて食べ始めました。

しばらくその様子を眺めていると突然、小さく、短いノック音が助手席の窓から聞こえました。餌を夢中で食べる姿を見ていたS子は驚き背筋に寒気が走りました。

振り向くとそこにはあの女性が立っていて、眉を寄せて少し微笑んだ口元は、何か深刻な物事を伝えに来たように感じられました。

 

ー続くー

公園の猫 8

駐車場に戻ってきてからの状況を、なるべく忠実にS子の語った通り記してみようと思います。

 

駐車場に戻って周囲を見渡すとS子の欧州車以外に車は数えるほどしかなく、人影もありません。野良猫に餌をやっても誰かに見られることが無さそうでした。

買ってきたおつまみの封を開けるとイカと酢の匂いが鼻をつきました。一切れ口に入れると唾液が滲み出てきます。

 S子はこちらを見上げる猫の鼻先にイカを投げました。素早い反応でエサを捉えると猫は一瞬で食べてしまいます。

その野良猫は真っ白な柄で、食べ終えるとまばたきすることなく青い目でS子の一挙手一投足を見つめていました。

S子はイカをまとめて投げてやりました。目の前に散らばったイカを見ると、今度は少し落ち着いて食べているように見えました。すると何処からか茶色い虎柄の猫も現れイカを横取りし始めました。白猫が威嚇したりもしますが、茶虎猫は知らん顔で食べ続けていました。

S子は買ってきた紅茶のペットボトルを飲みながら、首を振って餌を噛む野良猫の姿をぼんやりと眺めていました。

 その日からS子は、下の子をクラブに送ってから駐車場に寄り、時間になると迎えに行き帰宅する、というパターンを月に数回繰り返すようになっていました。その度旦那にはクラブの役員の人たちと打合せをしていた、等の適当な理由をつけて言っておきましたが、本当は毎週土日に体を求める自分を嫌がっているのでは、と旦那も気付いていたように思いました。

冬が終わり春を迎える頃でした。S子が駐車場寄るようになってから2ヶ月が過ぎ、野良猫たちはもうS子の車を見かけるとすぐに集まってきます。S子もおつまみではなく、猫専用の餌と自分用の紅茶を事前に購入するようになっていました。

その頃からほぼ毎回、同じように野良猫に餌をやる車を見かけるようになりました。離れて停車したその車の持ち主が、小柄な女性だろうとは気付いていましたが視力の悪いS子にはそれ以上分かりませんでした。

ある時、その小柄な女性が猫に餌をやり終えたのか、駐車場を出ようとS子の車の後ろを横切っていきました。運転席を見ると、知り合いに挨拶でもするかのように女性は微笑んで、S子に軽くお辞儀をしました。反射的にS子も頭を下げた時には彼女はもう通り過ぎていました。

S子は初めて間近でその女性を見ました。自分より一回りくらいは年上の、痩せた小柄な女性でした。

 

ー続くー

公園の猫 7

(下の子が野球クラブに行くようになってから…なんだよね。それから毎週するようになって…)

店内には私達以外に初老の女性のグループが四人居て、話に夢中のようで時折四人が一斉に笑う声も聞こえました。おかげで私達も気にすることなく会話できました。

(旦那はもう50になるし、今まで月に一度も無かったのに、急に性欲が湧いてくるなんて)

私は同情するように頷きながら、S子の話に聞き入っていました。

(無口な旦那だけど家庭的で誰に対しても親切な人なのよね。夫としては今まで文句もないくらいだったけど、毎週の行為が私、苦痛になってきて…しかも半ば強引にするときもあるの。そういう時は今までの旦那とはまるで別人になったみたいで)

初老の女性グループは相変わらず会話が盛り上がっています。S子が紅茶を飲み、私もコーヒーを飲んで最後に一切れ残ったタルトを口に運びました。

(強引なのはほんと嫌になるよね。旦那さんにそのことは言ってるの?)

(うん。強引にするのは辛いからやめてって。その時は分かったって言うけど、本人にしたらちゃんと手順を踏んでしてるつもりだから強引じゃないと思ってるのか…私も毎週するのは嫌だ、って何となく言いにくくて。拒否したら旦那が少し可哀想な気もするし。でも私はそんな頻繁に行為したくはないし、どうしたらいいのか分からなくなって)

無口で家庭的で親切な旦那。そして地元では有名なインフラ企業に勤めているので十分な収入もあるはずです。そんな旦那を拒否するのは少し可哀想、というのも分かる気がします。

 (下の子を野球クラブに送った帰りに、ふと思いついて帰り道から少し外れたところにある海浜公園の駐車場に寄ってみたの。このまま帰るとまた旦那とすることになるから、クラブで打ち合わせしてたことにすればいいかなって)

S子のいう場所は、国道沿いにある海浜公園の駐車場のことでした。大型トラックを何台も停めるスペースがあり、一般車はざっと50台は停められそうな広い駐車場です。

(停車してスマホを弄りながら時間を潰してたんだけど、何か外で動くのが見えたの。覗くと猫が私を見上げてたの、何かくれって顔しながら)

思い立ってS子は駐車場を出ると、近くのコンビニに入りイカのおつまみと紅茶を買っって再び猫が居たところに戻りました。猫は居なくなっていましたが、すぐにまた出てきてS子を物欲しそうに見上げたそうです。

 

ー続くー

公園の猫 6

左の隅にフクロウの焼き印のある、皮の名刺入れでした。

機械的均等さがなく、丈夫そうなハンドメイド作品のように思えました。

(旦那さんのなんだ。この名刺入れがどうかしたの?)

私が聞いたタイミングで、それぞれ注文したタルトが運ばれてきました。私達は無言でタルトと飲み物の位置を整え、会話を再開する準備をしました。

(ちょっと変な話かも知れないけど)

砂糖をゆっくり落として、混ぜた紅茶の渦を見つめながらS子が話始めました。私は相槌を打ち、話の続きを待ちました。

(ウチは上のお姉ちゃんと下の子が五つ年が離れてるのよね。二人目がなかなかできなくて、一人っ子でもいいかな、って諦めてたら下の子ができて)

 タルトを口に入れ、S子は眉を少し上下に動かしながら味わっています。私もイチゴを口に運びました。新鮮な酸味と僅かな甘みのあるやや硬めののイチゴでした。

(男の子なんだけどね、四年生になって野球を始めたの。地元では有名なクラブがあってね、そこに入部したいって言いだして。週末はいつもお昼から夕方まで練習してるのよ)

甘くしたコーヒーを口に含み、頷きながら話の続きを待ちました。いつもと違い話しにくそうにS子は喋っていました。

(上のお姉ちゃんも午後は部活に行くのよね。それで下の子を夕方迎えに行くまで家事してるとあっという間に夕方になってさ)

タルトを少し口に入れ、食べて、喋り、紅茶を飲むという動作をS子は繰り返します。私も話の合間で相槌を打ち、タルトを口に運びながら聞く役割に集中していました。

(一年くらい前からかな、子供たちの居ない午後になると毎回旦那がしたがるようになって…)

(したがるって?エッチしたがるって事?)

(そうなの)

私は思わず、へえー、と驚いたような感心したような声を出してしまいました。S子とは今までそういう話はしたことがなく、淡白な印象を持っていました。そして確か旦那はS子より八つくらい年上なので五十歳代のはずでした。

五十歳代になっても毎週求めてくる旦那。自分だったら嫌だろうなと思いつつ、S子の様子を窺うと、その表情から私と同じなんだと感じました。

 

ー続くー

公園の猫 5

変な言い方にならないよう気をつけながら、大丈夫?と声を掛けると、

(うん、ごめんなさい。早くしないとね)

と充血した目でS子は笑顔を作りました。

そこから二人で正規のパーツを組み込み接続をやり直し、無事に作業を終え、疲れと安堵からか二人とも少し妙なテンションになっていたと思います。

その日は仕事を終えてから、S子としばらく話し込みました。

立ち話を一時間くらいした後、今まで見せたことのない無防備な笑顔でS子は礼を言うと、あの欧州車に乗り込み帰っていきました。

最後に、気にしなくていいよ、と声をかけたもののS子がこんなに混乱した姿を見るのは初めてで、私の方が気になっていました。

その日の夜、S子から明日の仕事帰りにタルトの美味しいお店があるから一緒に行こう、とラインで誘われました。

プライベートを一緒過ごすのは初めてでした。S子はまだ下の子が小学生ということもあり、仕事を終えすぐ帰宅していましたが、明日は近くに住む義両親に預けるとの事でした。

 店は職場から遠くないところにありました。

古い建物でしたが手入れが行き届いた店内には清潔感があり、所々さりげなく飾ってあるハンドメイド雑貨に癒され、落ち着いた雰囲気がありました。

S子はビターチョコクリームと洋ナシのタルトを、私は迷ってイチゴとブルーのベリータルトを注文しました。

タルトが来るまでの間、また昨日のことをS子が詫びました。本当は怪我したところが大分痛むんじゃない?と聞くと、それは大丈夫だとS子が答えました。

顔の傷跡もまだ痛々しいですが、派手に転んだのにこの程度で済んで良かった、とS子は言いました。そしてスマホを弄ると私に一つの画像を見せてきました。それはどうやらS子が撮ったもののようでフクロウのマークがついた名刺入れ?のように見えました。

フクロウ?名刺入れ?と首を傾げた私に、

(うん、フクロウのキャラクターの名刺入れなの。旦那の物なんだけどね)

 というS子の顔は、少し緊張しているように見えました。

 

ー続くー

公園の猫 4

翌日の朝、出勤したS子の鼻と頬に金たわしで擦ったような痛々しい傷痕がありました。本人いわく顔の擦り傷よりも、捻った足首の方が痛むとの事でした。

知り合いの家の玄関を出たところで転んだ、とS子は説明し私や噂話好きおばさん達が同情すると照れたような苦笑いを浮かべていました。

捻った足首を庇うように歩くS子に声を掛けると、照れながら大丈夫だと答えました。転んだことが少し恥ずかしいんだろうなと私は思いました。

昼休みを終え、午後イチの仕事に取り掛かりながら、妙な違和感を覚えました。ある計器を作動させていると動いてはいるものの負荷が全く掛からず、何度か試して確認するとどうやら接続したパーツに間違いがあり、最初からやり直すことになりました。

S子にその事を告げると、今まで見たことのないような怪訝な表情を浮かべました。確認すると自分の接続ミスだとS子は気付きました。

S子がこんな大掛かりなミスをするのは初めてで驚きでしたが、急がないと間に合わないので、私はやり直し作業に集中していました。

気付くと本来使うべきパーツを取りに行ったS子がまだ帰ってきていません。そんな時間が掛かるはずはなく、私はS子が取りに行った方へ向かいました。そしてトイレの前を通り過ぎた時、視界の隅にトイレの手洗い場で顔を洗っているS子を見つけました。

顔を拭いたS子と目が合いました。

涙を洗い流したS子の目は、赤く充血していました。

 

ー続くー