公園の猫 24

噂話好きのK美は、意地の悪い微笑みを浮かべながら知り合いの子供がS子の長男と同じクラスだということ、S子のことが父母の間で噂になっているということをご馳走を与えられた犬のように興奮気味に話し始めました。

(S子さんと長いこと一緒だったじゃん?あの人やっぱり少し変わってた?)

仕事以外では付き合いが無かったが仕事中は特に変わってると思わなかった、とK美に言うと

(そうよね、珍しい車乗ってたりとか話合わせるのはすごく上手な人だったけどね、変わってるって程でもなかったかあ)と同調しない私は期待外れだとでもいうようにK美は残念がりました。

(S子さん何があったの?)調子に乗れずモヤモヤしているK美に尋ねると

(離婚したみたいね。出ていったんだってS子さんが。凄い揉めてたらしくてさ、家の中はぐちゃぐちゃだったらしいわよ。旦那さんは温厚な人らしいけどS子さんが暴力的になってね、暴れて手が付けられなくなってね、最後は投げつけた?何かが旦那さんの瞼に当たったらしくてね、救急車が駆けつけて大騒ぎだったらしいのよね)

最後に会った時、S子の様子が普段と違っているのは私も感じていました。そしてS子が転んだ時の話、振り向いた時には姿の無かった倉井が、まるで瞬間移動でもしたようにS子の背後に現れ突き飛ばしたという話を思い出しました。そのフィクションのような話を私と自分に言い聞かせるように話すS子の表情の奥には僅かに羞恥心が覗いていました。私はそのS子の奥に潜む感情に踏み込む勇気はありませんでした。恐怖心もありましたが初めてプライベートで会うS子に対してそこまで親身にならなくてもいいだろうと思っていました。それは私の嫌な部分でもあり、身に付いた知恵でもありました。

(それでね、実家に帰ったらしいのよ、S子さん。子供たちは旦那さんとおじいちゃんおばあちゃんで見てるらしいわね。ほーんとあんなにしっかりして頭も良さそうだったのに、人ってわからないものよねえ)

K美はそう言うと、話の盛り上がらない私は退屈だとでもいうように静かになりテレビを見始めました。私の頭の中をK美の言葉がぐるぐる回っていました。

(ほーんとあんなにしっかりして頭も良さそうだったのに、人ってわからないものよねえ)

 押されて転んだというのは、おそらくS子の狂言なのでしょう。S子が毎週のように旦那さんから求められていた、というのは本当の話だったのか。旦那さんがフクロウの名刺入れを持っていて、それが倉井の作品だというのは本当の話なのか。S子にとっては真実かどうかなど大した問題ではなかったのだろうと思います。いくつかの話の中に僅かに真実があり、その僅かな真実はS子にとっては重いもので、到底受け止められるものではなかったのでしょう。

私はそう考えながらS子との仕事を思い出していました。驚くほど物覚えが良く、一度説明したことは間違うことなく完璧に業務をこなしていました。感心してS子にそのことを言うと「物覚えだけはいいんですよね、考えるのは苦手だけど」と答えて微笑みました。その微笑みの奥には、全くかけ離れた表情のS子が不安げに私を見つめていたように思えました。

 

ー完ー

 

公園の猫 23

S子はやけにあっさりと退職しました。彼女の行動は今までの仕事ぶりや私の知っている普段の姿からはまるでかけ離れていました。スーっと突然目の前から居なくなったようでショックはありましたが、呆気にとられたという方が大きかったと思います。

おかげでしばらくは仕事が混乱しました。パートナーが当日のシフトで日替わりとなったこともあり作業はストレスを感じる間もないくらいの目まぐるしさでした。そんな日々が一か月近く続いて、やっと私のパートナーが固定されました。噂話好きなグループの一人で、私より一つ年上のK美でした。

K美とはお互いに長く勤めていたものの直接会話したことは無かったと思います。私もおそらくK美も、最初はお互いに噛み合わないと思い込んでいたところがありましたが、時間が経つにつれ意外に仕事がやり易いと感じるようになりました。話好きで普段から口数が多いK美でしたが注意深いところがあり、お陰で何度か私がミスしそうになったのを事前に防ぐことができました。代わりに仕事ががさつなK美の後始末を私がすることもあり、お互いに指摘して険悪にならずに、フォローし合うことでバランスが保てていました。

そんなK美でしたがやはり噂話が好きで、聞き下手な私が相手だろうと構くことなく休み時間になると話掛けてきました。ある日いつものようにK美が、私に聞いて欲しいと前置きして話始めました。

聞いているつもりで適当な相槌を打っていたのを見透かされたかなと少し焦りましたが、どうやらそうではないようでした。

K美が話始めたのはS子の事でした。

公園の猫 22

S子の長い話が終わりました。

タルトを食べ終え、私はすっかり冷めてしまったコーヒーを口に運びS子の様子を見ました。話し終えた満足感なのか、S子は少し興奮したように目を見開いて、すっかり冷めてしまった紅茶を何の反応も示さず飲み干していました。

 店内は私たちと初老の女性グループだけでした。初老の女性たちの会話が尽きることなく盛り上がっているおかげで、私とS子が沈黙していても気まずさは感じませんでした。

歩いていた店員を呼び止め、私はコーヒーのお代わりを頼みました。S子は店員を手で遮るようにいらないと答えていました。

(その、倉井さんだけど、怪我してから何か連絡はあったの?)

私が質問すると、S子は私と目を合わさずテーブルの端辺りを見つめていました。少し間をあけてから連絡は無い、と答えました。

(あれだけのことをしておいて、普通に連絡してくるとも思えないけど。ただこうなってはっきりと解ったこともあるし。夫は…)

S子は一旦言葉に詰まった後、いつもの口調とは違って感情的に早口で喋り始めました。

(夫は私が倉井の家で、倉井に押されて怪我をしたって言っても何の反応も無いの。心配している口ぶりだけど、どこか他人事みたいな感じだし、あの名刺入れだってたまたま同僚から何かのお礼で貰ったっていうのよ)

(名刺入れのことは…旦那さんがそう言うならそうとしか言えないけど、その倉井さんが後ろで押したっていうのは、何か不思議な感じがするよね)

私は二杯目のコーヒーを飲み両手でカップを持ちながらS子の様子を見ました。S子は私の意見に対して何も答えず黙り込んでいました。

その後、S子と会話が噛み合わないまま店を出ました。別れ際に微笑みながらまた明日、と言って車に乗り込み去っていくS子は普段の職場でのS子と変わりがないように見えました。

しかしまた明日、と言い残して別れたS子は次の日から姿を見せませんでした。会社には体調不良だと報告していたようですが私がラインで問いかけても既読されたまま返信がありませんでした。

それから二週間程経った頃、退職します、とあっさりと会社に連絡があったようでした。

公園の猫 21

倉井との久しぶりのお茶も、自分のせいで妙な雰囲気になっているとS子も自覚していました。

普段よく喋る倉井も口数が少なくなり、S子も夫のことを話してしまうと何も喋る気がしなくなりました。

半ば逃げるようにS子は、(そろそろ家に帰らないと)と独り言のように呟き、倉井は静かに微笑んで同意しました。

居間からオープンデッキに降りて、倉井にお茶のお礼を言って別れ、踏み心地の良い芝生を歩いて門の所まで来ました。門を閉めながら振り返って倉井の家を見上げると、S子はもう二度とここには来ることがないような気がしました。

門からは3段の段差があり、それを下ろうとした時でした。一瞬、上体が押されたように浮いた感覚があり、両足が離れ前方に移動したのが分かりました。体が宙に浮き、ゆっくりと前のめりにS子は倒れていきました。体のあちこちをぶつけながら最後に顔を地面にこすりつけ、その衝撃で目の前が真っ暗になりました。

小鳥が忙しなく鳴く声が聞こえました。見上げると電線の上を跳ねるように横移動しながら雀が集まっています。S子はしばらく気を失ったようでした。辺りに変わった様子はなく、どのくらいの時間が経ったのか分かりませんでした。とりあえず上体を起こそうと動くと左の足首に痛みが走り思わず声が出ましたが、口の中に入っている砂を吐き出し、なんとか体勢を立て直してヒリヒリとする顔に触れてみました。指には薄っすらと血と体液が混ざったものが付いていました。

足を庇いながらゆっくりと車に乗り込みました。エンジンをかけ車内の時計を見ると気を失ったのが一瞬だったと分かりました。車内のミラーに映った自分の顔が傷だらけで、少し頬が腫れていました。S子はシフトをドライブにし、車を発進させましたがアクセルを踏む足はガタガタと震え、車体は何かつっかえたようにぎこちなく進みました。

S子の額は汗でぐっしょり濡れていました。驚きと痛みと、そして恐怖が大きくS子にのしかかってきているようでした。

S子の頭にはさっきの記憶の断片が何度もフラッシュバックされていました。地面に体が着く前の一瞬、S子の後ろに手が見えました。そして倒れていくS子を見つめながら、倉井が静かに微笑んでいるのが分かりました。 

公園の猫 20

わざとらしくも思える驚き様と、笑顔で話し掛けてくる倉井に苛立ちを覚えながらも、S子は笑顔で答えました。そして倉井はいつものように自宅でお茶でも、とS子を誘いました。

久しぶりに倉井の家の居間に上がり、S子は周囲を見渡しました。倉井のハンドメイド作品は以前と変わりなく、あのフクロウのキャラクターが焼き印された名刺入れ、夫が持っていたのと同じ物がそこにはありました。

S子は名刺入れを手に取りスマホの画像を開いて見比べてみました。写っているのは間違いなく目の前の焼き印と同じフクロウでした。

 (気に入ってもらえるのがあったかしら)

気が付くと倉井がアップルティーを乗せたトレイを持って立っていました。微笑む倉井の後ろではあの毛足の長い猫が、怪訝そうにS子をじっと見つめています。

テーブルにトレイを置いて、倉井がカップにアップルティーを注ぐと部屋いっぱいに香りが広がりました。倉井に促されS子はソファーに腰掛けました。

(あのフクロウのキャラクターの作品は何処で販売してるんですか?)差し出されたカップを手に取りS子は尋ねました。

(前は置いてくれる店もあったけど、今はネットでしか販売してないのよ。売るのって作るのより大変なのかもね)と倉井はため息交じりに答えました。

(でも、私の夫があのフクロウの名刺入れを使ってますよ)

(え、そうなの?こんなに身近に買ってくれた人がいたなんて、嬉しいわ)

微笑みかける倉井をS子はじっと眺めていました。

(この間、たまたま夫のスーツを片付けた時にあの名刺入れが入っていたことに気づいたんです。夫が使っていることも私は知りませんでした)

倉井の表情から徐々に微笑みが消え、不思議そうにS子を見つめました。

(S子さん何かあったの?旦那さんと)

(何かあったというより、何かあって元に戻ったような感じです。でも以前のように元通りにはなっていないような…夫は変わってしまったような気がします)

倉井はアップルティーを一口飲むとしばらく黙り込んでいました。少し興奮したS子の、感情が収まるのを待っているかのようでした。

そして倉井がゆっくりとS子に語り掛けました。

(夫婦はね、いろんな時があるのよ。お互い変わっていくものだしね。元に戻りたくても戻れないこともあるわね。何を思っているのか分かっていても、理解しようと思わないとお互いずれていってしまうわよね)

 倉井はそう言うとS子を労るように見ていました。何か言おうとしましたがS子は口を開いたまま言葉が見つからず、静かな居間には日向ぼっこをする猫が時々耳をばたつかせる音だけが聞こえていました。

公園の猫 19

それから夫は忙しいようで帰宅も遅く、疲れきっているように見えました。

名刺入れの事を聞くのも気が引けて、少し落ち着いてからにしようとS子は思っていました。

珍しく夫は休日も仕事のようで、その土曜日も朝早くから家を出ました。息子をクラブに送った帰り、S子は暇をもて余し気が向いたのであの公園に寄ってみることにしました。

しばらく公園に来ることもなかったのですが野良猫達はS子の車を覚えているのか、停車させてすぐ数匹が集まってきました。

まだ少し車内に残っていたエサを車から投げ与えると、エサは一瞬で誰のものになるか勝敗がつき、その様子を見てS子はケンカにならないよう、細かく砕いて1度に投げ入れるようにしました。

ぼんやりと野良猫達の旺盛な食べっぷりを眺めている時、見慣れた車が目の前を通り過ぎました。車はいつもの定位置に停車して、運転席のドアが開くと倉井が降りて来ました。

気付いているのか、それとも気付かないふりをしているのか、倉井はS子に背を向けたままエサを与え、夢中で食べる猫達に何やら話し掛けているようでした。

倉井がここに来るだろうと思ってはいました。

名刺入れのことを倉井に聞くのは…おかしいだろうか、もしかして倉井は何か私に隠しているんじゃないか、

目の前の倉井を見ながらS子は考えていました。そして自分に気付かず背を向けた倉井の姿に苛立ちを覚えました。

S子はゆっくり、倉井に近付きました。倉井はS子の姿に気付くと、驚いたと笑顔で答えましたが、わざとらしく見えるその仕草に、S子は苛立ちを圧し殺すのが精一杯でした。

 

ー続くー

 

公園の猫 18

風呂から出た夫は動揺したS子と違い、特に変わったところもなく手早く食事を済ませるとパソコンの前に戻り、再びキーボードを打つ乾いた音をたて始めました。

その場に一緒にいるのも不自然で、あまり無理しないようにと夫に声を掛け、S子は先に休むことにしました。

ベッドで横になってみたものの、名刺入れの事が頭から離れず、スマホを手に取りさっき撮影した画像をぼんやり眺めていました。

夫に何気なく聞けば良かったのですが、S子は倉井の家に通ううち、公園に来るようになった理由は夫との関係が原因だというのを少し話たこともありました。もし夫が倉井と繋がりがあったとしたなら、夫は倉井からS子の話を聞いているのかも知れない。考えてみても、夫本人に聞かないと何もわからないことで、明日にでもタイミングをみて聞いてみようと思いました。

夫はその夜、日付が変わる頃までパソコンで作業を続けていたようでした。何度か夜中に目が覚めたS子が、ベッドサイドの時計を最後に見たのが2時過ぎでした。夫はすでに隣で背を向け寝息を立てていました。

眠りの浅いS子に気を使ったのか、入ってきたことにまったく気付きませんでした。

そういえば夫は、最近自分を全く求めなくなっていた。眠りにつく意識の中で最後にそんなことをS子は考えていました。